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井出草平の研究室
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"Social withdrawal"と社会的ひきこもり

「社会的ひきこもり」という言葉は英語の"Social withdrawal"を翻訳した言葉だと言われることがある。しかし、これら2つの言葉に含まれる意味合いは相当異なるものだと考えるべきである。
精神科医の斎藤環は『社会的ひきこもり―終わらない思春期』(1998)において以下のように述べている。
「社会的ひきこもり」という言葉をご存じでしょうか。"Social withdrawal"という、本来はさまざまな精神障害にみられる、一つの症状を意味する精神医学の言葉です。(斎藤 1998:4)
(1)"Social withdrawal"と言う言葉は斎藤が作った言葉ではないこと、(2)精神医学で「症状」(障害・疾患名にあらず)を表す言葉として使われていることが述べられている。 斎藤は、爽風会佐々木病院のウェブページでは以下のような説明もしている。
私は一昨年上梓した著書中で「社会的ひきこもり」という言葉を用いたが、これはアメリカ精神医学会の編纂した診断と統計のためのマニュアル「DSM-IV」の中で、”social withdrawal”と呼ばれる症状名の直訳である。DSM-IVの普及率や、比較的ニュートラルな名称なので受容されやすいと考えて採用した。
http://www.sofu.or.jp/hikikomori.html
ここから、斎藤環は「社会的ひきこもり」という言葉をもっとも一般的に使われている精神医学の診断マニュアルから採用したということがわかる。
精神医学の診断マニュアルであるDSMでは"Social withdrawal"という言葉はどのように使われているのだろうか。

精神医学の診断基準には「社会的ひきこもり」という診断名はない

精神障害の判断マニュアルであるDSMには"Social withdrawal"という項目はない。項目というは診断名やそのサブタイプのことをここでは指す。"Social withdrawal"という用語は本文中に出てくる用語である。
例えば、DSM-IV-TRの309.81「外傷後ストレス障害」(Posttraumatic Stress Disorder)の項目には以下のような記述がある。
以下に述べる一連の症状群が関連して起こることがあるが,対人関係のストレス因子(例:小児期の性的または身体的虐待,家庭内の虐待)との関連でみられることが多い.その症状には,感情調整の障害;自己破壊的および衝動的行動;解離症状;身体愁訴;無力感,恥,絶望,または希望のなさ;永久に傷を受けたという感じ;これまで持ち続けていた信念の喪失;敵意:社会的引きこもり;常に脅迫され続けているという感じ;他者との関係の障害;その人の以前の人格特徴からの変化などがある.(APA 2000=2002)
英語版の原著の記述は以下のようになっている。
The following associated constellation of symptoms may occur and are more commonly seen in association with an interpersonal stressor (e.g., childhood sexual or physical abuse, domestic battering, being taken hostage, incarceration as a prisoner of war or in a concentration camp, torture): impaired complaints; feelings of ineffectiveness, shame, despair, or hopelessness; feeling permanently damaged; a loss of previously sustained beliefs, hostility; social withdrawal; feeling constantly threatened; impaired relationships with others; or a change from the individual's previous personality characteristics.(APA 2000)
確かにDSMには"social withdrawal"が登場する。しかし、それは、「障害」(疾患)の項目名ではない。
「障害・疾患」(disorder)の診断名は、ここでは「外傷後ストレス障害」のである。病気で言えば病名にあたるものである。"social withdrawal"という言葉は、障害名ではなく、「症状」としてDSMには記述されている。例えば、「風邪」という病気には「急性上気道炎」という「病名」があり、これが障害名に相当する。そして、その症状としての「頭痛」「発熱」などの症状がある。風邪の頭痛や発熱といった症状に相当するのが、DSMにおける"social withdrawal"である。
頭痛や発熱が風邪以外の病気でも起こるのと同じように、"social withdrawal"は「外傷後ストレス障害」にのみ記述されている「症状」ではない。摂食障害の項目にも症状として記述されているし、統合失調症の項目にも症状として記述されている。
さまざまな精神障害の症状として起こるのが"social withdrawal"であるというのがDSMでのこの言葉の位置づけである。したがって、DSM的にひきこもりという現象を見た場合に、様々な精神障害の症状や結果として社会参加ができていない状態という位置づけになる。また、「ひきこもり」は、特定の精神障害ではないため、「ひきこもり」を引き起こしている原因疾患が多様であることも意味している。

「ひきこもり」という言葉の日本での使用

1998年に斎藤が「社会的ひきこもり」という言葉をDSM-IVから借用したといっても、「ひきこもり」という言葉が1998年の時点から使われるようになったわけではない。
日本語では「ひきこもる」という動詞としてこの言葉を使う用例は古くからあったが、「ひきこもり」という名詞の形で使われるようになったのは、それほどこの数十年のことである。
「ひきこもり」という言葉が流通し始めたのは1980年代だと考えられている。新聞記者が作った説、カウンセラーの富田富士也が作った説などがあるが、実際のところはわからない。ただ、80年代に生まれ、使われていたことは確実であり、雑誌論文でも80年代に使用が確認できる*1
書籍では、1992年にカウンセラーの富田富士也が『ひきこもりからの旅立ち』(ハート出版)を出版。1993年には稲村博が『不登校・ひきこもりQ&A』(誠信書房)を出版している。
政策の中で、「ひきこもり」という言葉が使われたのは1991年の「ひきこもり・不登校児童福祉対策モデル事業」(旧・厚生省)である。この事業についてはこちらを参照。
90年代に入ってからは、「ひきこもり」という言葉が支援の関係者の間で普通に使われる言葉になっていたことがわかる。
斎藤がDSMに記述されている"social withdrawal"の翻訳語である「社会的ひきこもり」を採用したとされているのは、1998年の『社会的ひきこもり-終わらない思春期』である。この本が出版される以前から、「ひきこもり」という言葉は一般的に流通していて、広く使われていたのである。
逆に言えば、DSM-IVが翻訳された1996年には日本語では「ひきこもり」という言葉が流通しており、"withdrawal"の翻訳語として「ひきこもり」が選ばれたのであろう。
斎藤は上記の引用で「社会的ひきこもり」という言葉を採用した理由は、「DSM-IVの普及率や、比較的ニュートラルな名称なので受容されやすい」と述べている。類推の域をでないが、出版時点まで使われてきた「ひきこもり」という言葉の持つ様々な意味から断絶したニュートラルな用語として「社会的ひきこもり」という用語を当初は使用していたのではないかと思われる。
ただし、斎藤(1998)で使用されている「社会的ひきこもり」はDSMに掲載された"social withdrawal"とは全く別のものを指しており、日本で80年代に生まれた「ひきこもり」とほぼ同一のものを示していた用語であった。そのため、「ひきこもりと」と「社会的ひきこもり」は明確な区別をされることなく使われ、「社会的ひきこもり」という用語は次第に使われなくなっていった。
*1 1985年の段階で論文のタイトルとして「ひきこもり」を使用している雑誌論文がある。谷野幸子・一丸藤太郎,1985,「一青年のひきこもりからの旅立ち」『心理臨床ケース研究』,p145~164.である。また、1986年には北尾倫彦,1986,「落ちこぼれ・無気力・ひきこもり」『教育と医学』34(5): p439-43.という論文がある。ちなみに、武藤清栄「ひきこもり概念の変遷とその心理」『現代のエスプリ (No.403)』:36において、ひきこもりという言葉は、一九八〇年に岡堂哲雄の「ひきこもり現象と家族心理」(こころと社会23・3 日本精神衛生会)によって初めて用いられたということを記述しているが、この記述は誤りである。岡堂の該当論文が掲載されているのは1994年『心と社会』25巻3号(日本精神衛生会)であり、この論文は最初期に「ひきこもり」という言葉を使った論文ではない(参照)。また、武藤は『心と社会』という雑誌名を『こころと社会』を誤記、巻号が「25・3」であるところを「23・3」と誤記している。
参考文献
斎藤環, 1998『社会的ひきこもり-終わらない思春期』PHP研究.
アメリカ精神医学会,2002『DSM-IV-TR 神疾患の診断・統計マニュアル』 医学書院.